【タイトル】
専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義
【本書の問題提議】
本書はよくある市民の知識に関する無関心を嘆いているのではない。知識に対する積極的な憎悪を問題視している。
【感想文】(約1400文字 5分ほど)
本書はアメリカの内情を示したものであります。そのため、日本とアメリカの様子を見比べる必要があります。本書によれば、アメリカは何でも自分で考え判断する文化であるといいます。一方の日本では、お上主義がまだ根強く残っているように感じます。新型コロナウィルス問題にしても、具体的な指針がほしいといった報道が数多くされるのは、その例ではないでしょうか。それがいいことなのか悪いことなのかわかりませんし、それが原因かどうかもわかりませんが、日本はまだ専門知に対しての軽蔑は少ないように思います。では文化、考え方の違いからアメリカのように専門知を軽蔑するようなことは、日本ではやってこないのでしょうか。残念ながらそんなことはなさそうです。
文化や考え方の違いはありますが、社会の構造は日本とアメリカで共通する部分が多くあります。SNSの発展による一億総ジャーナリスト時代、大学の乱立によって生じる学生は神様である論、などが共通部分です。それぞれの要因がどのようにして、専門知の軽蔑、無知礼賛となるかはぜひ本書を見ていただきたいですが、アメリカと同じような問題が、日本でも顕在する可能性は大いにあります。
では、知識に対する積極的な憎悪のどこに問題があるのでしょうか。ポイントは専門知だけではなく、知識そのものに対する憎悪であると考えられます。知識に対して憎悪を持っているわけですから、知識を持っている人を馬鹿にし、無知であることを賞賛します。加えて、知識なく議論するとなるとどうしても「俺が正しいと考えたことは、全部正しい。」とジャイアニズム的な発想となってしまいます。あまり表立つことはありませんでしたが、アメリカで地球平面説がブームとなっていたことは、その極みでしょう。そういった方と有効な議論ができるかといわれれば、はっきり言って無理でしょう。
日本人の場合はそこまで積極的に憎悪している人は少ないとはいえ、不信感を持っている方はそれなりの人数いらっしゃると思います。特に原発問題と温暖化問題は専門家の中でも意見が違うし、それぞれがあいまいなことしか言わないしと、不信感を持たれてしまうのは仕方がないのかもしれません。ただそれは、人々は科学を万能であると考えていることへの裏返しにもなるのではないでしょうか。万能である科学が、どうして異なった意見を持つのか、また間違えるのかと。
しかし、残念なことに科学には限界があり、万能なものではありません。特に未知なものや未来予想に関してはあくまでも可能性を示すだけであり、市民が求めているような絶対的に有効な提案をすることはできません。科学はあくまでも過程であり、結果を示すことはできないということです。それでも専門家は一般の人々よりも深い知識を持っており、まちがえる可能性が低いことは間違いありません。
今回の新型コロナウィルスは専門知との向き合い方の練習になります。日々更新される情報にどのように向き合うのか。どの情報源を信用するのか。ベストな解答ではないにしろ、最適解はどこにあるのか。不幸な災害を災害として終わらせるのではなく、この体験から多くを学び次の世代につなげていきたいものです。